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MANIFESTO

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文字を刻む

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筒原 燎 / TSUTSUHARA RYO

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July 1st 2024

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 カレンダーが21世紀をめくってから、既に四半世紀が過ぎようとしている。

 この期間、我々は怠惰な言葉遊びで、絶えざる持続をいたずらに分節し、貴重な時間を空費していただけだった。それにも関わらず、世界はあまりにも無情な変容を遂げて、歴史観だけがレトロ喫茶のように取り残されている。

 我々がどのように物事を捉え、評価し、価値づけ、時には意味づけ、いかなる世界像を結んでいようと、それらとは一切関わりなく、世界は実は溶けてしまっている。

 それは勿論、全てが終わったわけでも、衰退したわけでも、崩壊したわけでもない。

 世界そのものはそのままに、ただ流れているだけだ。

 万物は流転する、しかし元の水に還らず。

 我々の関知する現象としての世界が、それも純粋に知覚の上で結像される機械論的な環世界ではなく、ただ我々の思いなし、イドラのような感官の曇り、当て嵌められた一葉の格子の如き、単に我々がそうだと思っているに過ぎない漠然とした全体の広がり、語弊を恐れずに言うのであれば世界観だけが置き去りにされてしまって、その張子の虎にもならない貧弱で底の浅いハリボテが音もなく崩れ落ちてしまっていただけなのだ。

 そして悪いことに、そのような状況にに誰も気づいていない。(いたとしても、自分の立場を悪くするだけだから気づかなかったフリをして黙っている。)

 神は死んだ。その墓穴を掘ったのは他でもなく我々自身だ。

 ニーチェの箴言は大概意味不明だが、時として我々の腑に落ちる。

 とかく、我々は言葉をあまりにも杜撰に、軽々しく、いきり立って使い過ぎた。

君たちがどう生きるつもりなのかは知らないが(そんな箸の上げ下げまで他人に指図される謂れもないが)、それでもオトナたちは良かれと思って小綺麗な言葉を弄してくるものだし、かといって、いつまでも自分はコドモだ、若いままだと思っていると何も知らないまま一生を終えることになる。(それはそれで幸せかもしれないが。)

 それでは、と一念発起し、タイムラインを追って、トレンドに乗り、バズってみせたところで、所詮は他人の言葉を転売しただけだ。

 自分では上手に言語化したつもりでも、結局はその時々の構文に、語録にハマったというだけに過ぎない。あるいは業界(ガッカイと発音してもらって差し支えない。)の倫理観とやらにうまく取り入り、メディアの露出も芳しいご高名な先生方(一体いつ論文を書いて査読を受けているのだろう?)の覚えも良くなれば、プレビュー数は稼げるだろう。

 登録者数も伸びている。それで十分、嫉妬が嬉しい、それ以外に何が要る?

 収益化おめでとう!

 君たちが嫌いなコピペやトレス、学習に基づく生成こそが君たちの得意技だ。

 君たちはどう生きるか? 答えは簡単。我々こそが、もっとも完成されたAIである。

 確かにAI問題は深刻だ。

 何故なら我々自身が我々を、記憶力の劣るAIに貶めているのだから。

 ベルクソンに“学習”するのであれば、我々がAIをつくったのであって、AIが我々をつくったのではない。我々が全体であって、AIは部分である。

 それでも、我々はいずれ我々自身をAIになぞらえて理解し、捉えるようになるだろう。

 我々がコンピューターをつくったにも関わらず、自分たちの能力を(特に脳の機能を)CPUやメモリー、HDD(SSD)に喩えて理解するように。

 結局のところ、我々は、自分たちに唯一理解できる自分たちがつくった道具を通してしか、そのアナロジーの中でしか、世界そのものを(我々自身も含め)捉えることはできない。これはハイデガーの言う通りだが、ポジティブな見地からすると、道具とは我々と世界を繋ぐたった一つの縁である。道具を持ったサル。それが我々人類だった。

 もちろん、道具を用いる生物は他にもいる。

 アリ塚に木の枝を差し込むチンパンジー。石で貝を割るラッコ。自動車に木の実を砕かせるカラス。周辺の環境を利用する者はヒトに限らない。

 だが、ここまで精緻に道具を加工し、製作できた者は他にいただろうか。(いなかったと思いたい。)

 そして、それだけの緻密な作業をヒトに許容せしめたものは何だろうか。

 我々はそれを思考としてしまって赦されるだろうか。(器用な手先がこちらを見ている。)

 そして、思考とは言葉の紡績に外ならないのであるとすれば。

 アリストテレスがこう言ったことも頷ける。

 即ち、言葉(ロゴス)を持った動物、それが人類である。

 同族同士で“言葉”を交わす生物はヒトを除いても数多い。

 鳥類や哺乳類の大部分が特定の鳴き声をもって、対応するメッセージを同種に報せる記号としているし、一部の爬虫類や両生類にも同様の特徴は報告されている。加えて、無脊椎動物である昆虫も特定波長の振動音を発して群れの中でのコミュニケーション手段とすることがある。

 言葉とは、もともと何事かを他者と共有し、共約し、共感するためのものだったのだろう。

 あるいは繁殖のためのカエルやセミの鳴き声がもっとも始原的な形態かもしれない。

 その意味ではクジャクの羽根ですら言葉だろうか。

 いずれにせよ、言葉とは本来、他者のためのものだ。畢竟、他者のものですらある。

 自分だけの言葉など、自分以外の誰にも理解できない。

 共有できない、共約できない、共感できない言葉に何の意味も価値もない。

 情報とはそういうものだ。

 それを媒介するものが視覚的であれ、聴覚的であれ、あるいは筆記的な、その他を含め、形式と形態、形状がなんであれ、情報とは共有するものなのだから、コミュニケーションとは、つまり表現とは、真似をして、真似ができるものであって、それ故に、それらは常に不完全な再現であるからにして独自性などありえない。模倣から始まらない表現など無い。

 そうでありながら、我々はありもしないオリジナティとやらを求めている(ベンヤミンが言った複製技術時代の芸術とは何だったのだろう?)が、真にオリジナルな「御作品」など誰にも理解できないものだ。(芸術家先生はいつだって孤独だ。)

 表現とは既に、常に、誰かの古着なのだ。

 そして、表現とは世界の(あるいは本人を含め誰も見たことのない制作者の内面の?)表象であり、それ故に世界の一部であって、全体としての世界は本来的に他者であるのだから、表現という世界に至る道筋、それを舗装する踏み石としての言葉もとい意味によって自らの思考を形作る我々は、我々自身によって世界と向き合うことなどできないのだろうか。  

(独立自存する世界や他者という観念そのものからして、我々が夢見る影の一部でしかないのだろうか。あるいは、夢見る主体という我々自身が既に夢の影でしかないのだろうか。) 

 実際、我々はいつも他者が欲するものを欲する。

 我々が見る世界は、いつだって他者の欲動が行き交う杓子定規で測量されている。

我々の世界観とは、常に他者の欲望、その交差するベクトルが閉鎖する格子模様に終始していて、我々とはその一つの原点、基底の一つに過ぎない。

 我々はそうして用意された鋳型に自ら嵌まり、肩身を狭くして生き恥を晒す。

徹底した懐疑の果てにデカルトが見出したはずの「我」でさえも、ひるがえる画布の彩り、天井を這う不潔な甲虫でしかないとしたら?

 ゴーギャンがタヒチ島で孤独に描いた問いかけ。我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。答える者など誰もいない。何処にもいない。何もない。

 このような諦念は、我々の気持ちを暗いものにする。

 日の光が届かない洞窟は誰も好まない。ヒトは明るさに惹かれ、太陽の暖かさを慕う。

 月明かりさえ滅入る大都市のネオン!

 何もかも忘れさせる激しい光、大きな音、強い刺激!

 圧巻、壮絶、大迫力! 考える時間も、余裕も、意識もない! 情報に埋め尽くされる!

事ここに至ってはもはや“本当”そのものは重要ではない。“本当らしさ”が指向され、嗜好され、試行され、その承認こそが唯一にして絶対の要求となる。

 ショーペンハウアーの言ったとおりだ!

 芸術とは、表現とは、人生の苦痛を和らげるための鎮痛剤だった。

 宗教に限らず、芸術行為そのものが阿片なのだ。

 いかなる画像も動画も、特大サイズの字幕と(時に壮麗なパイプオルガンの調べと)ともにシャーマンじみた霊魂旅行の如く、我々を異世界へ転生させてくれる。

 現実に報われることがないのであれば、せめて空想の中で報われなければならない。

お伽話のはしり、メルヒェンの先触れ、伝説のはじまり。

決して嘲笑には値しない。

 ソクラテス-プラトンでさえ、善たるべきことの意味を、価値を、その根拠を、神話の中に、死後の世界へ求める他なかったのだから。

 こうして、物語は我々を救ってくれる。現実に生きる我々の苦痛を和らげ、悲哀から遠ざけ、表面的な平穏を保ってくれる。

 これを否定するにはあたらない。

 そうしなければ、何よりも先に我々自身のココロは壊死してしまう。(ココロとは、誰も見たことのない器官である。)

 肉体と精神は他の事物(例えば、天井と床、東と西、前と後)と同様に、同じコインの表と裏であって、どちらかがどちらかの従属物ということではないし、その本質ということにもならない。(ところで、その肉体と精神を位置づけ、根拠づけ、在らしめるものとはなんだろうか? 魂? 実体? 本質? それとも語り得ないもの?)

 こうして、我々は物語に現を抜かす。そうしないことには生きられないから。

 では、我々は、物語という言葉の編み物、表層に一角を示した意味の織物、錯綜とした記号の迷宮に捕らわれることでしか生きられない動物なのか。

 知恵という名の蛇、言葉というウロボロスが自らの尾を食むように、無意味で無価値で実態に欠けた円環に閉ざされし微睡みの中で、我々は起床する夢を見続けるのだろうか。

 おそらく、そうではない。

 確かに、物語にそのような側面があることをもはや否定することはできない。

 けれど、めくりめく言葉はしかて、常に同じものを再現することはない。

 往く川の水は絶えずして、しかし元の水にあらず。

同じ河に二度と入ることはない。

 同一性は我々を裏切る。こんな時でも。こんな時だからこそ。

 オリジナルはなく、その完全なるコピーもあり得ない。

 描かれた絵画をどう捉えるかは、それを鑑賞する人によって異なるように、

 書かれた文字をどう読むのか、それを決めるのは読み人自身である。

 そのような果てしなき解釈の循環、その先にスピンアウトする単子があるように。

言葉が綾なす絵空事は稀によく、我々に再び立ち上がり、自らの人生に向き合う力と勇気を横溢させる。

 そのような永遠の回帰、とぐろを巻く蛇の、もたげる鎌首は一時、我々の意志である。

 その蛇という基体が横たわる地平線、水平線こそは刻まれた言葉である。

 言葉とは、いつも上滑りし、逃げ去るイメージだ。それは底面から遊離して、地に足をつけてはいない、玉虫色に彩られた虚飾の美辞麗句ですらある。

 それとは別に、我々が希める言葉とは、木片に、石板に、岩壁に確固として刻まれた文字である。

 それは、人類が残してきた痕跡。我々がかつて存在し、いずれ存在するであろう、そして現に今、存在する記憶。我々が我々として現れ、そのように在り且つ在った、その刻印。

 ソクラテスは文字を嫌った。この無用の長物が人々から記憶する意志を拭い去ってしまうことを憂いて。あまりにも多くの情報が人々から思考する余白を奪ってしまうことを嘆いて。だが、彼の真意がどうあれ(おそらくそこまで未来を予見したものでもないだろう。)、現代の我々がソクラテスの言行を知ることができるのは、プラトンやクセノポンといった各種フィルターが残した文字によってである。

 コミュニケーション、ある種の意味を指し示す記号の交換としての言葉を持つ動物は人間に限らず、数多い。しかし、文字を持った動物は他に? 

 語るもの、語られるもの、語ることそのもの。

 時間を超えて、空間を跨いで、情報を共有し、足跡を継承し、轍を曳いて後に続けるもの。

そして、現代ほど、世界中の人々が文字を読んでいる時代はない。

かつてマクルーハンは、活版印刷によって個々人の手許に書物が行き渡った時、宗教改革の萌芽が顕われたと唱えた。どこの国へ行っても人々の掌にはスマートフォンがあり、SNSを介して繋がれてしまう世界のあり様は、果たしてアーレントが望んだ公共空間の再生と言えるだろうか。

 この問いの是非を語るには論を俟たない。

 新しい世界は古人が想定し、想像し、想起していた世界像から大きくかけ離れている。

故事は糟粕であり、それを嘗めたところで手がかり程度にはなるだろう。

詰まるところ、我々には我々の言葉が必要だ。

 上っ面に終始する言葉ではなく、浅く平板でありきたりな解釈を貫いて、しっかりと地面に突き刺さり、もう一度、我々を世界に向き合わせてくれる、そんな言葉が。言語が。語そのものが。刻まれた文字が。

 我々が臨む作業はきっと大変なものになる。                                                                    

 発掘作業だ。

 より深く、より暗く、より明瞭に。社会学や歴史学は言うに及ばず、言語学ですら、もはや考古学でも済まされない。

 発掘の発掘。考古学の考古学。言葉を成り立たせる言葉。

 意味の意味、価値の価値、言語のための言語。

 そんな言葉が、言語が、語が、

 解き放たれた種子となって、泳ぎ去るメデューサのようにいずれ時を離れ、

 やがては宇宙に花開く。

 だから、刻み続けよう。掘り進めよう。思い考えよう。

 その為に生まれてきた。その為に書いている。その為に生きていこう。

 再び世界と出逢う為に。

 そう。

 我々は憶えている。あの日の約束を。あの夜みた夢を。あの時、言えなかった名前を。

 確かに刻み、刻まれ、刻むから。決して、

 忘れないよ。

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